創業者から代々受け継がれたもの、「信用第一!」
第8弾は、有限会社吉岡金物店です。
昭和の初め、古都京都で生まれ育った初代吉岡浅治氏(故人)は、兄が東京は大森で始めた石炭問屋を手伝うために、花の都に上京する。商人として修業が始まった浅治氏ではあったが、大森には運命の人との出会いが待っていた。その女性と所帯を持つことになる。甘い新婚生活が始まると思いきや、時は太平洋戦争の真っただ中。二人して新妻久子さん(故人)の実家、川越は菓子屋横町に疎開した。当時はもちろん現在のように観光客で賑う地ではなく、子供相手の駄菓子屋小売り商が所狭しと軒を並べていた。 昭和25年、一大決心した浅治氏は、現在の店舗となる連雀町交差点に土地を借り、石炭問屋修業時代の人脈を頼りに、戦後の物資のない時代に金物屋を始めることになる。昭和28年には有限会社を設立。修理から配達までのきめ細かいサービスが評判の、家庭用品、日常雑貨の店として川越市民から広く愛された金物店になっていく。 昭和38年、2代目となる敏夫氏が川越商業高校(当時)の卒業と同時に入社。以来得意先の市役所、その関係先を担当。「ないものなど、何一つない」と言われて久しい吉岡金物店の群を抜く品揃えの豊富さは、2代目となる敏夫社長が作り上げた販売スタイルだ。今では実に1万を超えるアイテムがあり、棚卸には何と丸3日はかかるという。 | |||
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平成に入るといくつもの大型店の進出が、顧客の足を吉岡金物店から奪い始める。打開の秘訣は、ただ「信用あるのみだ」と初代浅治氏は敏夫氏に言い聞かせる。そうした難しい局面が押し寄せてきた時、敏夫氏と同じ川越商業高校(当時)を卒業した長男裕佑氏(3代目)は、建築金物の販売を学んだ相模原の金物店での4年間の修行を終え、平成3年に入社する。入社後建築金物販売の新事業を立ち上げ、建設業界に吉岡旋風を巻き起こすことになっていく。父親敏夫氏の家庭向け金物、息子裕祐氏の建築金物と今に至るラインナップの誕生だ。平成13年、満を持して敏夫氏は2代目社長に就任。初代浅治氏は2代、3代と続く確かな継承を見届けて永眠する。吉岡金物店の最大の財産は内助の功だ。初代を支えた久子さん(故人)、2代を今も支えている弘子さん、そして3代目裕祐専務には愛妻知子さんが新事業を支える代々夫婦二人三脚の構図は変わらない。(残念ながらご夫人たちの写真はNG) 裕祐専務が弊社の2代目岩堀徳太郎(故人)から激励された言葉がある。「安く仕入れて、安く売る。信用とはそういうことだ」と。以来裕祐専務はこの言葉を大切に商売に励み、今日も明日も市内のあちこちの建設現場を駆け巡っている。 | |||
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