神村工業の経営継承

生業の継承は、「人との繋がりを、一番大切にする」こと。

第11弾は、神村工業です。
創業者の神村英雄氏は、昭和16年東京都墨田区に生まれる。その地で両親は製氷販売を営んでいたが、戦争がはじまり、両親の故郷を転々とするも縁あって現在の居住地(比企郡嵐山町)に戦後定住する。中学校を卒業した英雄氏は、隣家が左官業だったことからその伝手を頼り、東京都中野区の左官業者に住み込みで弟子入り。今では考えられないが、無給で5年間の修行生活。愚痴一つこぼさず仕事を覚え、やっと一人前扱いとなり給金はあるものの更に3年間の延長労働。22歳となった英雄氏は、晴れて奉公期間が明け、職人技術を掴んで故郷嵐山に凱旋する。地元の内田工業所(現在廃業)に5年間勤め、28歳となった英雄氏は晴れて独立、神村工業を立ち上げる。独立の切っ掛けをつくってくれたのは、弊社が請け負った山村学園坂戸校(現山村国際高校)の改修工事に内田工業所の職人として出向き、そこで親しくなった施主の山村健先生(故人当時坂戸校長)からの強い後押しがあったことと、登美子さん(故人)との結婚だった。初代岩堀徳太郎の時に弊社徳栄会にも加入する。以来夫婦で左官業を営み弟の俊夫氏、三男氏も加わり、同業者からも慕われた英雄氏、仕事は順調に増え忙しい日々を送った。2代目となる長男の学氏が加わったころ、登美子夫人が病気となり、一番つらい5年余りの介護と仕事の両立を送る。そして登美子さんは帰らぬ人に。長男の学氏は高校を卒業し、継ぐつもりはなかった左官業、やがて二代目の力量が試されていく。

神村工業の歴史を語る
ゆずや柿などご近所にお裾分け。

リーマンショック後、景気は落ち込み建設業界も新たな展開へ突入する。左官業はその存続が問われる時代に入った。一人親方を貫く二代目にとって一番の財産は「人との繋がり」と語る学氏。小学生の頃、父親の手伝いに現場に入り資材を運ぶ、その時声を掛け励ましてくれたのが現在の積算部長の永田だった。永田も当時は現場スタッフ、二人の関係は現在に至るまで変わらない。「思えば亡くなった母親が、神村工業の跡を継がせようと、事あるごとに関係性の深い人を繋がせくれていた」と語る学氏。今後の展望を聞いたところ「仕事が順調に回っていくためには、人との繋がりを第一にしていくことは変わらない」と漢気溢れるも基本を疎かにしない二代目の誕生でした。そして創業者の英雄氏は、自宅兼会社の裏庭に実のなる木を植え育て、「収穫の時期になるとゆずなどの実をご近所に配る、皆さん楽しみにされている」と。左官業は全て息子に譲った安心感からか、目を細めて語ってくれました。いつまでも仲の良い親子でいてください。

親子二代の左官業、厳然と!
SDGs11「住み続けられるまちづくりを」に貢献!
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