Ⅱ第2回「美しき日本の自然を愛する原点は」

伝統の「県立川越高等学校山岳部」に入部する。

高校時代に歩いたルート、                      87歳の健脚はものともしない。

弘明が15歳の時、10歳年上の兄栄司(故德太郎2代社長)が赴任先(当時建設省現国交省の技官として赴任)の長野県から久々に川越の自宅に帰郷、一枚の写真を弘明に見せた。冬の北アルプスを背景に天然つららの氷を山頂で満面の笑顔で頬ばる兄の写真だ。少年弘明に衝撃が走った。「山岳部がある高校に絶対進学する」と。昭和28年当時、山岳部がある高等学校は県立川越高校、期せずして兄の母校、同サークルに入部した。以来年年歳歳、春夏秋冬、日本中の山を走破。時間を見つけては山を歩く楽しみを知る。現在も同校山岳部OB会のリーダーとしてその健脚ぶりは後輩たちの目標だ。

弘明氏にとって山を楽しむ経験は、森林に生息する生物全般、地質学、気候学、歴史に至るまで、あらゆる自然学学習の宝庫となった。日本の美しき自然は、「次の世代に残していかなくてはいけない」との強い使命感を育てた。

大学を卒業後、鹿島建設に就職。父徳太郎(初代社長)の突然の死去により、兄を助けるため岩堀建設工業㈱に入社する。

       (詳細:軌跡シリーズⅠ掲載)

「伊佐沼冒険の森」誕生秘話(川越青年会議所時代)

岩堀建設に入社後、兄栄司(2代徳太郎社長)と共に二人三脚で経営に奔走する。そうした多忙の日々を送るなかで、他者から経営を学ぶ思いから川越青年会議所へ入会。同世代の若き経営者たちと地域のために何ができるか積極的に活動を始めた。1971年、石井一理事長(当時)の発案で、市民参加による伊佐沼公園づくりのための植樹活動に参加した。市民一人1,000円を募集し、行政も加わって1,600本に達した。1974年(昭和49年)、理事長に就任した弘明はこの伊佐沼整備活動を引継いだ。樹種の選定について、最初は埼玉大学の永野教授にも相談に乗っていただき、樫、椎をすすめられたが、結局武蔵野の雑木林をイメージしたナラ、クヌギが計画の中心となった。その後横浜国大の宮脇名誉教授をお招きし、土地本来の樹木は「常用広葉樹」である樫類であることを知った。特にタブノキを中心とした「鎮守の森」を全国に広める必要性を学習した。そのため一部シラカシの林とした部分が今でも残っており、数十年経過して林床は、柔らかく深い森をイメージさせるものとなる。弘明にとって生態系の理念を知る動機となった。

現在この地は、「伊佐沼冒険の森公園」という名称で、その木陰には休息を楽しむ家族連れや気の合う仲間たちの素朴な憩いの場となっている。植樹より50年を経過し、現在の青年会議所が中心となって倒木の危険性がある樹木を新木に植え替えるメンテナンス活動を行っている。その中心にはOBの弘明氏の姿があった。

新たに植栽した樹木(樫)
サステナブルな森の創生を教える。
木陰で寛ぐファミリー
植栽後50年、美しい森となる
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